【系図】
秦始皇帝(しんのしこうてい)
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<五世或十世 世数未詳>
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孝武王(こうぶおう)
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功満王(こうまんおう)
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弓月王(ゆづきおう)
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普洞王(ふどうおう)
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酒君(さけぎみ)
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秦河勝(はたのかわかつ)
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広国 ※以下「明友」まで『贏姓系図』より抜粋>
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勝俊
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克国
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俊治
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俊仲
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俊能
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俊雅
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春義
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行永
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永利
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恒遠
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恒任
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義遠
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春俊
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邦利
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重信
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重昌
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秋友
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明友 ※以上『贏姓系図』より
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初代・能俊(よしとし)
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二代・俊宗(としむね)
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三代・忠俊(ただとし)
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四代・重氏(しげうじ)
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五代・氏幸(うじゆき)
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六代・満幸(みつゆき)
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七代・兼光(かねみつ)
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八代・重俊(しげとし)
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九代・重髙(しげたか)
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十代・重宗(しげむね)
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十一代・信能(のぶよし)
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十二代・兼能(かねよし)
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十三代・兼綱(かねつな)
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十四代・能重(よししげ)
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十五代・元親(もとちか)
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十六代・文兼(ふみかね)
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十七代・元門(もとかど)
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十八代・雄親(かつちか)
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十九代・兼序(かねつぐ) 序尭 親興 道孝 国決
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二十代・国親(くにちか) 国康
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二十一代 ┃ ┃ 初代 ┃
元親(もとちか) 親貞 親泰 親房(ちかふさ)島・弥九郎(しまやくろう)
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信親 親孝(親和) 親忠 二十二代・盛親(もりちか) ┃
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二代・五郎左衛門(ごろうざえもん)<親典(ちかのり)>━━━
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三代・與助(よすけ)
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四代・弥左衛門(やざえもん)
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五代・久蔵(きゅうぞう)
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六代・惣亟(そうきょく)
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七代・弥右衛門(やうえもん)
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八代・弥四郎(やしろう)
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九代・歡次(かんじ)
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十代・與助(よすけ)
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十一代・與右衛門(ようえもん)
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十二代・與助重親(よすけしげちか)
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十三代・吉親(よしちか)
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十四代・親衛(ちかえい)
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十五代・林馬(りんま) <親(ちかし)>
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十六代・友猪(ともい)
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十七代・友親(ともちか)
【人物】
第2回 秦河勝
川勝とも書く。「長宗我部氏系図」では、河勝。
6世紀後半から7世紀前半の人とみられる。生歿年不詳。
聖徳太子(厩戸皇子)の側近。ブレーン的存在。
用明2年『587年』物部守屋征伐の時、軍人として活躍して、守屋を討った。推古11年『603年』太子所蔵の仏像を授かり、山城の国に、蜂岡寺を建て、守る。
610年、新羅からの使いが来た時にその先導役となる。
第1回 秦始皇帝 (在位紀元前246-210)
秦の第31代の王で、それまで戦乱に明け暮れていた中国の統一を成し遂げ、そして自らを始皇帝と称した。
統一王朝は紀元前221年に完成した。
その功績は多く、度量衡や文字を統一し、貨幣者流通も果たした。また、郡県制を採用し、中国を中央集権国家に作り上げた。
しかし、始皇帝はその一方で悪名も高く、焚書坑儒なども行い、その気性の荒さに、側近はじめ、始皇帝の一族も常に、身の危険を感じていたといわれる。
長宗我部の遠祖が、秦の始皇帝とすると、始皇帝の流れを汲みながらも、始皇帝の周辺から逃げてきた一族なのかもしれない。